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オームの法則という言葉を知らない人はおそらくいないでしょう。特に電験の資格に挑む方はだれでも知っていると思います。オームの法則を発見したのは、ゲオルク・オームという18世紀終わりから、19世紀中盤に活躍したドイツの物理学者です。彼の功績は大きくやはり、一番の功績は「オームの法則」の発見です。現在でもその理論の力は効力を発揮し、普段私たちが使うアイロンなどの電化製品などの理論的支柱になっているのです。

今回は、そんなオームの法則を発見したゲオルク・オームのすごさについての記事となります。

その前に、電験や電気工事士の資格試験対策として必須の知識となるほどのオームの法則を把握しておきましょう。

オームの法則とは何か?

オームの法則とは、簡単に言うと、『電圧の大きさは、電流が大きくなるほど大きくなり(比例)、抵抗が大きくなるほど、大きくなる(比例)』ということです。オームの法則の公式は、以下のようになります。

オームの法則の何がすごいかというと、電圧、抵抗、電流のうちのどれか二つがわかれば、かならず求めたものが算出できるという点です。電圧を求める場合は、V = I x R、抵抗を求める場合はR = V / I、電流を求める場合はI = V / Rと表せます。もちろん、直流だけでなく交流にも適用できる今日の電気を理論的な支柱になっています。

そんなとんでもない法則がオームの法則です。では、オームの法則を発見したとされるゲオルク・オームさんはどのような人物なのか?どのような過程でオームの法則を発見したのかを紹介します。

 

ゲオルク・オームの生涯

ゲオルク・オーム(1789/3/19~1854/7/6)

ゲオルク・オーム(1789/3/19~1854/7/6)

この方がゲオルク・オームさんになります。まずは生い立ちから発明までの過程を紹介します。

生い立ちから大学生活

生い立ち

バイロイト侯領エアランゲンにて錠前職人の父から7人兄弟の長男として生を受けました。エアランゲンとは現在のドイツでいうバイエルン北部の都市になります。

エアランゲンの場所

エアランゲンの場所:出典エアランゲン市について

両親は正式に高等教育を習ってはいませんでしたが、数学、物理、化学、哲学などの知識はかなりのレベルにあったそうです。そんな父親からゲオルクは教育を受けたのです。それゆえ、幼少期からかなりの知識をもった人物であったといえるでしょう。

兄弟のうち何人かは幼いときに亡くしており、無事に成長したのはわづか3人でした。その兄弟のうち弟マルティンはのちに数学者として名を馳せますから、父親の教育は相当にレベルの高いものであったことがうかがえます。

小学校時代

父の教育の影響もあり、ギムナジウム(小学校のようなもの)では学校の教育レベルが低いことを理由に、わづか11歳で退学してしまいます。今でいう小学5年生での自主退学ですから相当な神童でした。ギムナジウムをやめてしまったのは教育レベルの低さもありましたが、科学に関する教育がなかったこともあるでしょう。

大学時代

その後、地元であるエアランゲン大学に、16歳の歳である1805年に入学しました。しかし、ゲオルクはダンスや、ビリヤード、アイスホッケーにドはまりしてしまい、大学から休学命令を下されてしまいます。父はこのことに激怒し、ゲオルクをスイスに向かわせ、1806年9月からは数学教師として働くことになりました。

当時、ゲオルクと関係のあったカール・フォン・ラングスドルフがエアランゲン大学を去り、ハイデンベルク大学へ移籍することを知りました。彼を追うように、1809年にはハイデンベルク大学で数学の家庭教師をすることになったのです。

彼はハイデンベルクで数学の研究を再開したいと考えていましたが、カール・フォン・ラングスドルフは彼にオイラーラプラス、ラクロワらの著作を読むよう勧め、独自の研究をするように進言しました。オイラーやラプラスは解析学など偉大な数学者でした。彼は進言通りに勉強に励みましたが、1809年に教職を退職し、2年間自分で家庭教師として稼ぎを蓄え、1811年にエアランゲン大学に復学し、10月に博士号を取得しました。ここから数学講師としての人生が始まります。

教師時代

博士号を取得したのちに、数学講師として採用されるに至りましたが、給料が安いことが気がかりで退職してしまいます。バイエルン政府の要請があり、ゲオルクは、数学と物理学の教師を務めることになり、よりよい待遇をてにすることができました。しかし、彼は満足することはありませんでした。この時、不満の解消のはけ口になっていたのが『幾何学入門書』の執筆でした。

ゲオルクはこの幾何学入門書をプロイセン王フリードリヒヴィルヘルム3世に送り、王は感銘を受けました。その後、1817年にそのかいもあり、ゲオルクはケルン理科大学の上級講師として勤めることになりました。28歳の出来事でした。

大学のよく整備された研究環境で本格的な物理学の研究を開始することになりました。31歳となる1820年には、エルステッドの電磁気現象の発見に興味を持ち電磁気学の実験を始めることになりました。

ちなみにエルステッドによる電磁気現象とは、自然界の一つの力(電気力)が別の力(磁気力)に変わりうることを実証して見せました。これまで電気と磁気は関連のないものだと考えられており、電気学と磁気学にわかれていました。 この時初めて、電磁気学が誕生したのでした。

このときのゲオルクの実験はカルヴァーニ電池を使用し、電流と電圧の関係を数学的に取り扱う研究に着手するというものでした。

カルヴァーニは以下のような実験で、蛙の足を鉄の柵にぶら下げその足にしんちゅうの針金をひっかけると、蛙が痙攣することを発見したのである。この実験により数々の電気実験を安全に行うことができるようになっていたのである。

カルヴァニ電池の実験に使用された蛙

この時に、ゲオルクが出版した書籍が『Die galvanishe Kette, mathematisch berabeitet』(数学的に取り扱かったカルヴァニ電池)である。

Die galvanishe Kette, mathematisch berabeitet

Die galvanishe Kette, mathematisch berabeitet

この書籍をベルリンにて発表したのケルン理科大学からの評価があまり芳しいものではなかったために、1833年ニュルンベルク工科大学へで務めることになった。その後もしばらくは評価されることはなかった。。

1841年に、英国王位協会からコプリー・メダルを受け、科学業績を認められる。1849年にこのような業績を評価され、念願のミュンヘン大学での招聘教授に就任することになりました。1852年の62歳にミュンヘン大学の実験物理の教授に就任しました。

2年後の1854年にゲオルク・オームはその人生に幕を閉じました。

 

オームの法則の発見

ヘンリー・キャベンディッシュの発見によるオームの法則の発見

電流と電位差が比例するというオームの法則を最初に発見したのはヘンリー・キャヴェンディッシュで、1781年のことです。しかし、キャヴェンディッシュはその発見を存命中に公表せず、その発見が明らかとなったのは1879年のことなのです。

このヘンリー・キャベンディッシュは非常に多くの法則を発見した人物なのです。例えば、オームの法則のほかに、クーロンの法則や比熱、潜熱の発見などです。ですが、他人とかかわることを極端に嫌う性格であったために研究内容などは発表することはありませんでした。

ゲオルク・オームによるオームの法則の再発見

オームが法則を発見した由来はフーリエの熱伝導の関する研究をモデルにしたと言われています。電気の挙動を熱に置き換え、「温度差」による熱の伝わる「早さ」と伝える「面積・長さ」から、温度差→電圧差 早さ→電流 断面積・長さ→抵抗値と考えました。
こうすることによって、抵抗(R)=電圧(E)÷電流(I)と類推して実験を繰り返した。 
そして「オームの法則」を確信したのです。

このことは『Die galvanishe Kette, mathematisch berabeitet』(数学的に取り扱かったカルヴァニ電池)により1827年に発表されたのでした。

彼の死後の1881年彼の業績をたたえて、国際電気会議は電気抵抗の標準単位を「Ωオーム(Ohm)」と称することを決めたのです。

まとめ

今回は、今の電験資格や電気工事士資格で必須となる理論「オームの法則」についての紹介と、それを発見したゲオルク・オームについてを紹介しました。やはり、オームの法則を発見できたゲオルク・オームのすごさの根幹は父親によるハイレベルな教育があったことは間違いないといえるでしょう。

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